私は日本の建築物は世界最高峰にSPECが高いと信じている。
それは地震国家と呼ばれる程、何度も大震災に見舞われ、毎年必ず訪れる台風という強風に煽られても耐久できる構造で設計されている。
給排水を始めとするインフラも完備しており、生活的側面においても世界最高峰と言って間違いないと思う。
事実、水道水を飲める国は日本以外に存在しない。
そんなSPECの高い建築の価値が、もっと見直されても良いのではないかと感じる時がある。
それは築年数の経過と共に、日本では建築物の価値が低下して行く事だ。
新しいものであればある程、テクノロジーは進化し、品質は改善され、設備や材料における利便性や質もグレードアップされている事は間違いない事実ではある。
当然、メンテナンスの時期も、中古の物件よりもリードタイムは長い。
故に新築の物件が喜ばれるという心理はよく分かる。
しかし、その考えは建築物は消耗品であるという発想に起因している。
ヨーロッパでは建築は芸術に近い形として位置付けられており、築年数が経つ程、年数を経た絵画やワインがその価値を増して行くが如く、その資産価値は向上する。
アメリカでは、日本人が住んでいた賃貸物件は価値が向上する傾向するそうだ。
それは日本人は建物を丁寧に扱う人種であるという認知がされており、そういう情報は不動産会社のPR要素になり得ると言う。
このように世界から見て、高いSPECを持つ日本の建築物と、高い文化レベルを持つ日本人という組み合わせを有しながら、日本の建築物の価値が向上しない事は不自然であるように映る。
なぜこのような条件が持ちながら、真逆とも言える結果を許してしまっているのかという事を、私は長年考え続けて来た。
そしてその仮説として、エネルギーと文化にそのヒントが隠されているのではないかと思う。
私は少し長い間、ドイツに滞在した事がある。
そこで学んだ事は、エネルギーについて真剣に考え、コミュニティの力で文化に昇華しているという事だった。
もう少し詳しく説明すると、彼らは再生可能エネルギーをそこに暮らす住民達自らの手法、財産によって、発電や送電を運営している。
インフラや社会システムやライフスタイルさえも自らがデザインし、エネルギーという出口戦略によって、利益に還元しているのだ。
もっと具体的に言うと、太陽光発電、バイオガス発電、風力発電といった発電設備から電気を生み出し、それを自分達で使い、隣町に電気を売るという事業まで営んでいる。
その中でも私が感銘を受けたのは、バイオガス発電だった。
この発電システムは、植物や家畜の糞尿から発生するメタンガスを燃料にしてタービンを回し、そこから電気を発電させ、タービンから熱せられた熱でお湯を作り出す。
日本よりも緯度が高く、冬場は冷えるドイツという地理上、このお湯という熱エネルギーも有効に機能しており、売買に利用され経済を生み出している。
このような循環型のシステムが彼らの生活の身近にビルトインされており、その価値を向上させ続けているのだと理解した。
また街並みも美しく、いつまでも暮らしていたいとさえ思える程、満たされた時間を過ごしていた。
そもそも建築とは古来より、生活価値、環境価値を求め、それこそが文明の根幹を担って来た産業だったはずだ。
それが現在の日本では建築は工業化され、プリペードなものとなった。
確かに日本でも木造建築が主流だった頃は、木材の性質上、せいぜい30~40年が妥当な耐久年数とされており、20世紀の木造住宅はそれぐらいの周期で建替が行われて来た。
法隆寺や姫路城のような文化遺産に指定されない限り、コストを掛けてまでそれらを保存しようという発想には至らない。それでは価値は向上するはずもない。
しかし現代においては、木材の耐久性も20世紀の素材とは比べものにならない程、その加工技術も価値も向上している。
建築家の隈研吾氏が設計した、東京オリンピック・パラリンピック競技場は、高強度、耐火性能を有した木材が使用されている。(個人的にデザインは何の変哲もない競技場が出来上がったと思うが。)
日本国内において、木造建築はもはや鉄骨構造や鉄筋コンクリート構造に匹敵するほど、強靭なものとなっている。
素材や耐久性だけでなく、再生可能エネルギーやHEMS、BEMSといった設備面での付加価値も組み合わせる流れにある。
構造的に、現在では200年の耐久性を視野に入れて計画されている。
この200年にどのような時間的価値を築けるかが、真の意味での建築を語る上で重要なミッションではないだろうか。